ソーシャルワーカーの思い出 本文へジャンプ
 ここでは、私のソーシャルワーカー時代の思い出を、事実と印象によって綴りました。(プライバシー保護のための加工あり)そのうえで、現時点の私からみたコメント(考察)を書いてみました。ソーシャルワーカーの仕事も、教員に負けないほど素敵な仕事なのです。



ケース6 心残りのプロポーズ

 ソーシャルワーカーをしていると、相談にのっている患者さんから様々な感情を向けられることがあります。なかでも、異性から恋愛感情を向けられた時に戸惑うことが何度かありました。
 その日私は、大勢の患者さんたちが座っているロビーをたまたま通りがかりました。すると、一人の男性が立ち上がって私に声をかけてきました。いつも書類の代筆を行う精神疾患をもった人です。
 彼は数メートル離れている私に対し大声で「僕、保正さんのことが好きです。僕と結婚してください。」と言ったのです。あまりにも突然の告白に面食らった私は、とっさに両手を後ろに回し、右手にしていた指輪を左手の薬指にはめ替えて「私、結婚しているからあなたと結婚できません」と言ってしまいました。本当は結婚していなかったのに…。彼はとてもガッカリした様子でした。
 でもその後、ずーっと私はこの時の対応を後悔してきました。なぜあの時、彼に嘘をついたのか。なぜ、もっとキチンと対応できなかったのか。もし倫理綱領の文言が頭に浮かべば、もっと別の理由を伝えられたのではないか…。
 その人に対して誠実に対応出来なかった心残りが、後々まで尾を引いた一件です。 



ケース5 借金って恐ろしい・・・

 その日私は、集中治療室から入院している人の相談で呼ばれました。彼女はかなり重症の病気で寝たきりだったのですが、話はできました。また、病気は一時的なもので、いずれ回復する見込みがありました。相談内容は、サラリーローンから借りたお金が気になっているとのこと。彼女のために動いてくれる人は他にいません。
 病院に持ってきていた借用書を鞄のなかから取り出すと、何社もの借用書が続々と出てくるのです。それも入院する数週間前のものであり、すでに金利は膨れ上がっていました。本人に事情を聞くと、最初1社から借りたお金を返せずに、他社から借りて返していたとのこと。いつの間にか雪だるま式に金利は増え、多重債務に陥っていたのです。
 とにかく、事情を確認しなければと各会社に電話をして、本人が入院していることを伝えました。そして、すぐには返済ができないため、とりあえず金利を増やさないようにしてもらえないかと交渉しました。さらに、本人が治って退院したら計画的に返済する予定も立てました。幸いなことにどの会社も事情をわかってくれ、その時点で金利増加をストップし、どのように返済するかという相談にのってくれました。まだ、「取立て屋」が社会問題になる前の話です。
 このケースを通じて、借金の恐ろしさと、絶対にサラリーローンに手を出してはいけないことを、痛感しました。だから今でも私は学生に「絶対にサラ金からお金を借りてはいけません」と話しています。
 ある日、私がオレンジ色のワンピースの上に白衣を来て集中治療室に行ったとき、「スイカのような綺麗な色の服だね。私もお洒落して遊びに行きたいわ」と彼女はつぶやきました。その時の彼女のうらやましそうな声は忘れられません。退院後に、キチンと借金を返して幸せな生活を送っていることを願っています。




ケース4 患者さんの声を聴くということ

 新人期には何度も失敗を繰り返した私ですが、今回もまたもや失敗談です。
 その日私は脳神経外科病棟より、ある患者さんが病棟で使う車椅子がレンタルできるよう、業者に依頼してほしいというオーダーを受けました。その頃、病棟では車椅子が不足しており、必要な人は車椅子業者からレンタルすることになっており、私がその窓口でした。
 すでに時刻は夕方で私の気持ちは帰宅に向いていました。また、患者さんに2種類の車椅子から1つを選んでもらい、業者に連絡するだけで終わるため、新人の私にとっては「楽勝」の仕事でした。
 さっそく病室にむかい、ご本人と会って「2種類の車椅子のうちどちらをご希望ですか?」と聞いたところ、その人は失語症があり話していることがよく聞きとれません。失語症の患者さんと話すのは初めての私は、軽い気持ちで2回くらい聞き返したのですが、やはりわかりませんでした。3度目に聞いたときに、「患者の気持ちがわからない奴は帰ってしまえ!! 」と勢いよく怒鳴られてしまいました。なおかつ、その人は車椅子レンタルを固辞され、病棟にその報告をすることになってしまったのです。
 『しまった、私早く仕事を終わりたくてきっといい加減な態度だったんだろうな…』と後悔しても後の祭り。きっと、患者さんの立場より自分を優先した私の気持ちが、態度に出てしまったのでしょうね。まだまだ未熟なワーカー1年生でした。
 それ以来、相手にキチンと向き合うこと、どのようなコミュニケーションが相手に合っているのかを考えながら接するようになりました…。



ケース4へのコメント

 今から思うと、無知&無謀な体当たりケースです。少なくとも、失語症の言語症状や基本的な接し方を知らなければ、信頼関係の形成が難しいでしょう。
 医療現場で日常的に相談援助業務を行おうとする際に、最小限度の実践的な医学教育が欠かせない所以です。
 仕事をする側(少なくとも「専門職」と呼ばれる側)がものを知らないことが、もしかすると目の前にいる人を傷つける危険性があるかもしれないことを感じさせるケースでもあります。
 この時の反省は、現在の教育のなかで活かしたいと思います。



ケース3 飲み会貧乏にご用心!!

 就職当初の私の初任給は13万5千円でした。大学院2年の2月に就職が決まったとき、先生方に給料の話をしたら「君はそんなに自分を安売りしていいのか!!」と、ある先生からお叱りを受けました。大卒初任給が18万円の頃に大学院修了で13万円5千円とは、どうみても安かったのです。でも、なんとかして食べていかなければならないし、お金に無頓着な性格だったので、『働いて勉強させてもらって給料がもらえるとはラッキー』くらいにしか思っていませんでした。
 実際に働いてみて、一番お金がかかったのは交際費でした。学生時代の飲み会といえば、せいぜい2,3千円の居酒屋か、お友達の家で飲むかんじでしたが、病院は違います。一次会は料亭のような場所で最低5千円の会費、二次会は「お姉さん」(なかにはフィリピン人も)が水割りを作ってくれるアダルトなお店で真夜中まで、というのが相場でした。二次会はドクター等のおごりです。
 就職して最初は、「歓迎会」ということでタダで飲ませてもらえるのですが、2回目からはきちんと会費を支払わなければなりません。400ベッドの病院でワーカーは私一人、8つの病棟のいくつかから節目節目に飲み会のお誘いがかかります。病棟との関係を作らねばと必死の私は、お酒が好きなこともあり、極力飲み会の誘いは断らないように頑張りました。すると、多い月では3回ほど、つまり1万5千円が飲み代で飛んでいってしまいました。また、「お姉さん」のいるお店に行くと、いつも夜中の2時、3時までかかるので、病院まで1時間の自宅に帰れなくなり、病院のベッドで泊まることもしばしば…。
 当然、翌日の仕事に支障が出てきます。患者さんの相談にのりながら、相槌を打っているつもりがそのまま寝てしまったこともありました。『こんなことではワーカー失格、それ以前に社会人失格だ』と反省し、それ以来、病棟からの誘いはほどよく断ること、病院に泊まらずきちんと家に帰ること、自分の懐具合と相談して消費することを実践しました。
 それ以降、「お姉さん」のいるお店には一度も行っていません。私には手痛くも刺激的な社会勉強の場だったのです。



ケース3へのコメント

 社会人としてのセルフ・マネジメントの問題が顕著に現れているケースです。そして、まだ自分のアイデンティティが、「学生」から「社会人」へと移行していなかった時期ともいえます。
 いろいろな角度から自分を知ることはとても大切なことであり、自分の経済的な能力も含めて自らをアセスメントし、どれくらいのことができるかのプランを立てて実行することが求められます。これはソーシャルワーカーの仕事にも共通することであり、広げようと思えばいくらでも広げられる仕事であるがゆえに(研究者も同じ)、キチンとしたセルフ・アセスメントとセルフ・マネジメントは欠かせません。
 ただ、自分の能力を知るには、いくらかの経験と失敗も欠かせないのですが…。
 また、現在は国家公務員の福祉職俸給表にのっとった給与基準が示されましたが、私が働いていた頃は民間病院はピンキリで、私の病院のように安いところから、初任者でも25万円前後支給されていたところがありました。全体的にも給料が低かったので、なかには残業代目当てで残業を行っている、と噂されている職員もいました。
 やはりいい仕事をしようと思えば、それなりの待遇が不可欠なことを示している例でしょう。



ケース2 ソーシャルワーカーの7つ道具

 さて、医療ソーシャルワーカーとして働き出した私にとって不可欠な7つ道具をご紹介しましょう。今との時代の違いを感じるかもしれません。
1.ポケットベル
 当時、まだ携帯電話(PHS)は普及しておらず、病棟との連絡はポケットベルで行っていました。院内用と院外用の2つを持たされていました。自宅で熟睡している夜中の2時、3時に院外ポケベルで起こされて病院に電話をかけたこともありましたっけ。
2.筆記用具
 いつでも、どこでもメモを書けるように、ペンとノートは常に持ち歩いていました。面接中は、キーワードのみメモをとり、いつもそれを手掛かりに実践記録を書いていました。
3.名刺
 ネットワークづくりが命のソーシャルワーカー。それには、自分自身を知ってもらうことが不可欠です。そのため、常に名刺を持ち歩いていました。電話ですむことも足を運び心理的距離を近づけるのが大事です。
4.手作り資料
 高額療養費制度、身体障害者手帳、更生医療等の資料を作って綺麗な色の紙で印刷し、患者さんとの面接時に渡していました。やはり、口頭だけではなく後に残る資料があると相手の理解度が変わるようです。
5.ナースシューズ
 ワーカーは、とにかくフットワーク軽く、よく歩きます。そのため、はきやすい靴は欠かせず、私は白衣にナースシューズをはいていました。でも、数ヶ月すると底が磨り減ってはけなくなるので、頻繁に買いかえていました。
6.電話
 まだインターネットが普及する前で、わからないことがあると、とにかく電話をかけて聞きまくっていました。社会保健事務所、県庁、(旧)厚生省、○○研究所…かけないところはないくらい、とにかく調べることが道を開くのです。
7.『家庭の医学』
 数ある本のなかで、特に役に立つのがこの本です。医学用語が飛び交う病院で、本当に初歩的なことを調べるのに最適です。多少なりとも医学知識がなければ医療ソーシャルワーカーの仕事ができないことを、やってみて初めて知った私でした。


ケース2へのコメント

 7つ道具の4について。ソーシャルワーカーの仕事はサービス業としての側面を持っているので、いかに相談に来た人に満足してもらえるか(顧客満足度)という視点も大切でしょう。その意味では、資料を渡すなど目に見える「お土産」があると、効果が高まるのではないでしょうか。
 6について。当時はまだインターネットが普及しておらず、調べる手段は本か人に聞くことでした。また、それゆえに一度活用した社会資源は書き留めるなど、自分なりの資料を作っていました。今はインターネットが普及して便利な世の中になったものの、玉石混交の情報の山からいかに有用な情報を選り分けるかという、リテラシーが求められています。その力をつけると同時に、やはり厚労省や県庁等、運営元に聞くのが良いように思います。
 7について。ソーシャルワーカーは、他の医療スタッフのように医学の勉強をしてきたわけではないので、込み入った話はもちろんわからないのですが、少なくとも日常業務が行使できるくらいの医学知識は必要です。病名を聞いておおよその症状や生活がイメージできることが望ましいのですが、私自身が全く医学知識を身につけないで病院に勤務したために苦労しました。
 そんな時は、各種の本で独学すると同時に、話を聞ける医師や看護師から教えてもらうことが一番です。患者さんから医学知識を聞かれて、間違っても知ったかぶりをしたり、他の医療職の領域を侵すような生半可なアドバイスをしてはなりません。


ケース1 新人の試練!?

 私が、まだ病院の一人ワーカーとして入職したての5月の連休明け、その出来事は起こりました。楽しい連休を過ごし、職場に戻った朝、私が担当していた生活保護の癌の患者さんが亡くなられたのです。前任者から、この人がなくなったら市役所御用達の生活保護を扱っている葬儀屋に連絡するようにと言われていました。そこで、さっそく私は葬儀屋さんに連絡したところ、遺体の引き取りはお昼ごろになると連絡をもらいました。
 当時、患者さんが亡くなったら、主治医と外科病棟の看護師に連絡をし、皆で最後のお別れをすることになっていました。そこで私は外科病棟の看護婦長(現在の看護師長)に、昼に葬儀屋が来ることを伝えたところ、「私たちはその時間お昼なのよ。それまでの間、遺体を誰かが持っていくかもしれないじゃない。あなた、遺体に付き添っていなくならないように見ていてちょうだい」と言われたのです。
 まだ新人で、強い口調の看護師に逆らえなかった私は、その指示に従って2時間ほど霊安室で遺体に付き添っていました。まだ「人の死」を体験していなかった私にって、この体験はかなりこたえました。誰もいない霊安室、線香の匂いがたちこめるなか、「彼」と二人きり。
 お昼になって、ようやく葬儀屋さんが引き取りにきて、主治医と看護婦長に連絡として「彼」を送りだしました。長いクラクションとともに…。
 その日、私は一時的な記憶喪失になり、かなり前に覚えた職員の顔はわかるけど、名前が出てこない状態になってしまいました。そんな状態が午後中続きましたが、一晩寝たら回復しました。

 それから3年が経過し、ある日、私は当時の外科病棟看護婦長より呼び出され、個人的な相談を受けました。ソーシャルワーカーは3人の職員から相談を受けたら一人前と言われます。その時私は、『ようやくこの人は、私を認めてくれたのだな』と思ったのです。
 そして、私と2時間ほど二人きりの時間を過ごした「彼」は、私に「人が死ぬということ」の現実を教えてくれました。その後も、何人も関わった人たちが亡くなっていきましたが、今でも「彼」のことは鮮明に覚えいてます。貴重な体験をさせていただいたことを、心から感謝します。



ケース1へのコメント

 このケースは、他職種とソーシャルワーカーとの関係作りに関わるものです。今振り返ると、当時の看護婦長の要求は「いじめ」か「試し行動」のように思えます。しかしいくら新人とはいえ、ソーシャルワーカーとして応えるべき要求ではありません。遺体の管理は自分の仕事の範疇ではないこと、葬儀屋の都合により昼にしか引き取りにこられないことをキチンと伝えることが必要でしょう。
 ただし、新人期の5月の出来事であり、信頼関係が十分に形成されておらず、婦長もどのようなソーシャルワーカーかと値踏みをしている段階のため、頭ごなしに拒否すると葛藤が生じると考えられます。そんな時こそ的確なアサーションが行えるよう、コミュニケーション・スキルを鍛えておくべきだったといえます。
 ただし、その後の3年間で看護婦長とも信頼関係を形成し、ソーシャルワーカーの存在と業務内容が職場内で認められた点は評価できます。
 また、ソーシャルワーカー自身の「死生観」が問われているケースでもあります。「死」は特別なことではなく、「生」の延長線上にある一つのプロセスの終焉であることを認識していなかった私は、やみくもに恐怖心を膨らませています。もちろん、ずっと霊安室で付き添う必要などなく、初めてづくしの体験でパニックになっている様子もうかがえます。
 少なくとも医療機関や高齢者施設で働く人にとっては、正面から「死」と向き合い考える時間が必要であり、学生時代には確固としたものでなくても自分なりの「死生観」の基盤を形成する必要があるのではないでしょうか。それを行ってこなかった結果が、ケース1に反映しているといえるでしょう。




次回へ続く

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